佐渡の伝説・民話

 
 
[佐渡の伝説・民話]
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村雨の松(両津)
 
 

 

 昔、夷にお松という美しい娘が住んでいました。お松は毎晩、欄干橋の上に立って若い男たちを呼び迷わせていました。そのころ両津番所に勤めていた若い役人がお松を好きになってしまいました。ある晩、お松は逢いに来た役人に「貴方が本当に私を好きなら、私を背負ってこの橋の下を渡ってください」と言いました。役人はおんぶして川へ入ったが、中ほどで短刀で刺殺されました。お松には人に知れては困る秘密があったのです。その後もお松は若い男を騙していましたが、ある盆踊りの夜、若者たちがお松を襲い、川に突き落としました。翌日、死体は川に浮いていましたが、その後、夜になると、御番所の松の辺りで、女の泣き声がして、お松の亡霊だと恐れており、それを聞いた者は、必ず欄干橋から落ちて死んだと言います。「両津甚句」に、♪いやだいやだよ御番所は、掃部お松が出て招く・・という歌詞があります。この松は作家尾崎紅葉により、「村雨の松」と命名され、県の重要文化財の指定を受けています。


両津欄干橋(両津)

 両津港ターミナルの埠頭付近の、夷町と湊町をつなぐ橋は3つありますが、その真ん中の橋は「両津欄干橋」です。現在はコンクリートになっていますが、昔は欄干橋であったもので、「両津甚句」に、♪両津欄干橋、真ん中から折りょと船で通うてもやめりゃせぬ・・と唄われています。この橋が万が一折れて通れなくなっても、船に乗って、愛する人のもとへ通うのをやめないという熱烈な恋を唄ったものです。江戸時代に、橋のたもとの北側に御番所があり、「御番所の橋」とも言われていました。現在は両津海上保安署が建っています。敷地内には上記の「村雨の松」があります。


宇賀神社(両津・両尾)
 

 宇賀神社は両津市両尾(もろお)の海岸線にそびえ立つ、円錐型の小山の上に鎮座する神社です。昔は「宇賀塚」と呼ばれ、海抜106メートルからの眺望は素晴らしいものです。土地の人は「うがじんさん」と呼び親しまれています。祭神は倉稲魂命(うかのみたま)で、すべての食物をつかさどる、稲荷大名神とされています。また一説には、大国御魂神(おおくにみたま)の子の豊受姫(とようけひめ)と同体とも言われています。日本書紀には「倉稲魂、此れを宇介能美施麿と云」と記されています。しかし、赤い鳥居はなく、仏説により白蛇を祀ったもので、弁財天の宝冠中にある白蛇を宇賀神とすることが全国的にも広まっています。そのため、以前は、己巳(つちのとみ)の日、ことに3月25日の例祭には、花柳界の綺麗どころの参拝者でにぎわいました。今では、除夜から元旦にかけて「金儲けの神」として島内の遠くからもお参りに来る方もいます。


「夕鶴」は佐渡の伝説が由来
 
 

 佐渡の民話に「鶴女房」というものがあります。佐渡は昔から鶴が多く飛来し、佐和田町真光寺金北山神社には佐渡奉行が鶴の死骸を葬った碑が立っているくらいです。もっとも、若い男性に命を助けられた鶴の恩返しをテーマにする、この種の話は全国的に多くみられます。しかし、作中に子供たちが歌うわらべ歌に「じゃんに着せるふとぬうの・・」(佐渡弁)というのがありますが、これはその地でのお遍路さんの謡っていた歌だそうで、原話は佐渡のものであることは間違いなと思われます。また、相川の北方辺(きたかたべ)には、罠にかかった鶴が助けられ、若い娘に姿を変えて老夫婦に恩返しをするという鶴の民話も残されています。


竜王岩(両津)
 

(竜王岩)

 両津湾の入り口の姫崎灯台の先に小さい岩が見えます。佐渡へ流された順徳上皇がある日、姫崎付近で舟遊びをされました。上皇は佐渡山脈を眺め、美しさにうっとりしている内に、誤って短刀を落としてしまいました。上皇は悲しみ、侍従に探させましたが、見つかりませんでした。悲しみのあまり「束の間も身に離さじと思ひしに 波の底にもさや思ふらむ」と一首詠み帰ろうとした時、海中から竜王が刀を捧げて現れ上皇に差し出しました。上皇は大変喜び、竜王が姿を消したこの岩を「竜王岩(りゅうおういわ)」と名づけました。また、一説には、池蔵人(いけのくらんど)が上皇を慕い水津まで来たが、海が荒れて上陸できませんでした。その時、持っていた短刀を海に投げ込み竜王の怒りを鎮め、無事上陸できました。この刀は、後に漁師によって引き上げられそこの岩が竜王岩だとも言われています。この短刀は今でも、河崎神社に保存されていると言われています。


風島弁天(両津)
 

(風島弁天)

 両津市片野尾集落から北に約700メートルの海上に磯続きの巨厳があります。これを「風島(かざしま)」と呼び、頂上に弁財天をまつってあるので「風島弁天」と言われます。また、地元では「片野尾の弁天」とも呼ばれています。温暖な南佐渡だけに松の緑が美しいです。風島弁天にはこんな話が残っています。承応(1652年)のころ、片野尾村の長(おさ)の息子、小藤内が眼病にかかり一向に治りませんでした。彼は盲人となって親に心配をかけるのであれば、いつも信仰する弁天様に祈願をこめ、それでも治らない時は身を投げて死のうと決心しました。友人に手を引かれ頂上に登り、一人21日間祈願しましたが、眼は開きませんでした。そして、自分の家の方向に手を合わせ、両親にご恩を謝し海に飛び込みました。すると、海から大風が吹き上げ、静かに地面に落ちました。そこは赤泊村莚場でした。村人に介抱され家に送り届けられた小藤内は眼病も治り、その後長寿をたもったということです。


八百比丘尼(羽茂)
 

(八百比丘尼 生家)

 

(ミセハセのクマ)

 人魚を食べたために800年も生きたと言う八百比丘尼伝説は全国に広まっていて、佐渡にもその伝説は残っています。昔、大石の浜で村人が酒盛りをしていたら見知らぬ男が仲間に入ってきて村人は仲間に入れ、その男も大いに喜びました。すると男は「今度は私がご馳走したい」と言い帰って行きました。約束の日に村人が集まると、男に目隠しをされ、立派な建物に案内されご馳走になりました。宴の途中、村人の一人が便所に行った時、料理場を覗くと奇妙な動物を料理していました。その村人はみんなにこの話をすると帰りたくなりました。男はその料理を包んで土産に持たせ、また目隠しをし、大石の浜へ送ってくれました。村人たちは気味悪がり、みんな海に捨てて帰りましたが、ただ一人田屋家の爺さんだけが忘れて家に持ち帰り、翌日その家の娘が食べてしまいました。その後、娘は800歳まで生きたので、あの肉は人魚の肉ではないかと言われています。娘は嫁に行きましたが、夫、子供、孫が死んでもその若さは変わりませんでした。その後、尼になり若狭に住んでいましたが、故郷が恋しく佐渡に帰って来ました。村人達は見知らぬ旅人を村に入れず、「ここで生まれた証拠を話せ」と言いました。娘は子供の頃の記憶から斎慎人(みしあせびと)を葬った「ミセハセのクマ」を案内し、掘ったところ人骨が現れ村人は納得しました。その後、再び若狭へ帰り、1000年の命の内、200年を殿様に譲り、若狭国小浜の空印寺境内の洞窟で死んだと言われ、現在でも「八百姫明神」と崇め祀られています。現在でも子孫は残っており許可を頂いて、生家の写真を撮らせて頂きました。


国宝 阿弥陀如来坐像と朝鮮鐘(両津・久知)

(長安寺)

(阿弥陀如来坐像)

(国宝朝鮮鐘)

国宝朝鮮鐘は両津市久知の長安寺に、木造阿弥陀如来坐像とともに安置され、いずれも国の重要文化財に指定されています。阿弥陀如来坐像は檜の寄木造り、漆箔です。穏やかな容貌や寄木の手法から平安時代後期の作とされています。

一方、朝鮮鐘は端麗な美しさを見せ、竜頭は方竜頭で、縁に唐草模様と菩薩の像があります。この鐘は13世紀頃のものと言われ、新潟県では長安寺にしかないめずらしいものです。伝説では、若狭の海から上がったものを寄進したと言われています。この鐘をつくと、「大和田薬師に行きたい」と鳴るといいます。また、この集落の人々には「久知の長安寺に帰りたい」と鳴るといわれます。この鐘は雌鐘で、ほかに国府川の川尻に雄鐘が沈んでいると言われて、竜王が惜しむので今も地上には上がらないといいます。また、この鐘は天正19年(1589年)、 豊臣秀吉の命を受けた上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の佐渡征伐の際、上杉軍を応援した佐和田町の真光寺住職が権勢をふるい長安寺から持ち出したが、明治維新後、再び長安寺に戻されました。鐘の後部にはその際に削り取られた跡が残っています。


馬首の駒角(両津・馬首)
 
馬首集落

馬首に五平という百姓がおり、この家で買っている駒(馬)はすばらしい名馬で、昔から「名馬には角がある」といわれており、この馬にも人間の小指ほどの角が生えていました。この噂は佐渡のみならず越後(新潟)までひろがり、この噂を聞いた越後の博労がやってきて大金で買い取って連れていった。その後、五平は寂しい日々をすごしていましたが、ある朝、売ったはずの馬の鳴き声で目を覚ましました。馬は五平を慕って、はるばる海を泳いで帰ってきたのです。しかし、越後の博労が来て、連れて帰りました。それから数ヶ月もたったある日、海岸に馬の死骸が打ち上げられていました。それは五平の馬だったのです。馬は五平を慕い、前と同じように泳いできましたが、途中、力尽きておぼれたのでした。この名馬の角は今も五平の子孫に伝えられていると言われています。また、「馬首」という地名もこの話しからのものだそうです。

同様の伝説は赤泊村にも伝えられており、牛の親子愛のお話です。「城の山公園」の展望台内で紹介されています。    >>「城の山公園」


賽の河原(両津・願)
 

賽の河原

願地区から鷲崎方面へ海岸沿いに歩いていくと、海に向かって高さ100mくらいの岸壁があります。そこに入り口5mくらいの洞窟があって、中には沢山の小石や石地蔵が並んでいます。ここが「賽の河原」です。子供が死んでから行く冥土の三途の河原と言われています。うす暗い洞窟の奥には「血の池」というものもあります。ここでは、村の子供たちが積んであるある石を崩しても、翌朝には元通りになっているといわれています。また、子供を亡くした親がここに来れば、自分の子供と同じ顔のお地蔵さんに逢うことができ、泣き声も聞こえると信じられています。「二つ亀」から「大野亀」の遊歩道の中間に位置しています。私が取材に訪れたときには、タバコの吸殻などが見受けられました。 神聖な霊場を訪れる者のモラルが問われます。                      >>大野亀・二つ亀


「竜眼の池」(相川・岩谷口)

竜眼の池への洞窟

洞窟内部

弘法の投筆

相川町の北端、岩谷口(いわやぐち)という地区があります。ここには「竜眼の池」「弘法の投筆」というものがあります。「竜眼の池」は、岩谷口の二つの洞窟の一つにあります。昔、盲目の子を持つ母竜が真夜中に、わが子の眼玉を持って来て、この池で洗っていました。その時、人間の気配がしたので慌てて、眼玉を落としたまま海中に逃げました。黒い眼玉を拾った老人が、岩谷薬師に差し出すと、薬師は大変哀れんで、その眼玉をきれいに洗って池に返してやりました。しかし、母竜は二度と姿を現しませんでした。今でも、二つの竜眼は真夜中になると、母竜が来るのを待つかのように、青白い光を放つと言われています。また、この洞窟は佐渡南端の小木の宿根木に通じていると言われています。

一方「弘法の投筆」は、洞窟のある斜面を遠くから見ると、墨汁がたれているからのように見えることから、名づけられたと思われます。また、この山は「海鳴山」と言い、その場に立つと波の音が聞こえてきます。

>>佐渡の観光


「弁慶岩」(両津・片野尾)
 

弁慶岩

この巨大な岩は、「弁慶岩」と言われています。片野尾の右門太郎(えんたろう)家前にあったものを、弁慶が運んできたもので、途中足跡があるとの言い伝えもあります。道路に面した窪みは背中の跡、海に面した大きな窪みは綱の跡、と弁慶の剛力のほどが今日に伝えられ、かつて道路の向かい側に義経岩もありましたが、道路工事により無くなったそうです。また、大正5年7月この地を訪れた詩人 巌谷小波が「弁慶の涙か岩に春の雨」と詠まれた句がこの岩に趣を添え、地元の人たちにも親しまれています。


「峠の地蔵」(真野・豊田)
 

梨の木地蔵

佐渡奉行の江戸への往復、金の輸送などには相川町から小木町への路が使われました。また、この途中の真野町豊田から分かれて赤泊村への路も公道として使われました。この赤泊街道に、梨の老木があることから「梨の木峠」と言われ、昔は茶屋もあったそうですが今は地蔵堂があります。本尊の石地蔵には次のような伝説があります。昔、豊田の漁師が帆をあげて沖を走ると急に止まってしまいます。不思議に思って海を覗いてみると光るものがありました。それは30cmほどの石地蔵でした。漁師はすぐに帰り村人と相談し、海の見える丘にお堂を建て安置しました。初めは南を向いていましたが、船を止めてしまうというので、西に向けたところその現象はなくなりました。その後、豊田から3キロ離れた現在の梨の木峠に移したと言われています。この地蔵は子供の病気平癒を必ず叶えてくれると、遠方からも願を掛けに来る人は多く、大願成就すると必ず一体の地蔵を「身代わり地蔵」と言い持参することになっています。「梨の木地蔵祭り」は8月24日で参拝者には幸せになれるという「やせごま」という餅をもらえます。また、この近くには「梨の木清水」があります。




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